やっと出来た
もうずっと前から歌詞が出来なくて止まってた曲の歌詞がやっと出来た。このわずか数百文字の為にどれだけの時間を費やさなければならないのか・・・以前にも愚痴って書いたけど、この効率の悪さは相当キツイ。これでやっと音いじりに時間を割ける。そんなわけで作詞家随時募集中!!!誰か助けて~。
ついでに(と言いつつ長文の予感・・・)僕の”歌詞論”について語ってみよう。僕の歌詞は毎度「熱くてクドイ」タイプが多いので、もしかすると「歌詞重視派」と思われるかもしれない。ひとまず、作り手としての立場は度外視して、リスナーとしての僕は「歌詞なんかどうでもいい派」だ。だいたい英詞なんて意味もわからずに聴いてるし、むしろ、たまに訳詞を見ては「うわー、この曲って実はこんな臭い歌なのかよ!あー英語苦手で良かった~」と思うことがある。ちょっと意味が分かり難いかもしれないので補足すると、邦楽の場合、折角の素晴らしい音楽であってもミスマッチな”聴きなれた日本語”が登場することによって萎えてしまう可能性が一気に高まるのだ(一般論ではなく、あくまでの僕の個人的好みの問題で)。その点、歌声も”音”として以外の意味を持たず(僕にとっては)、そこで鳴っている”音”全てに神経を持っていくことができる洋楽の方が断然好みだ。「じゃあインスト聴けよ」ってツッコミもあるかもしれないが、それは全く別であって、僕は”歌声”というどんな楽器にも真似の出来ない”楽器の王様”を活かす為に様々が楽器が陰で支えていくことで出来上がる音楽の姿が好きだ。話が飛んでしまったが、リスナーの立場としては上記のように”歌詞”不在で音楽を聴いている。邦楽の場合でも、もちろん”歌詞が良い””感動した”に越したことはないが、少なくとも「この曲は歌詞がいいから好き」なんていうスタンスには200%なりえない。僕が考える”音楽における歌詞”っていう存在は、例えるなら”PEIDEにおける高田延彦”のようなもの。説明すると、現在のPRIDEの興行において高田が作る”笑い”の世界は必要不可欠であろう。しかし、肝心なのは"試合”であって、間違っても「試合はしょっぱかったけど、高田のパフォーマンスは面白かったから興行としてはOK」とはならない。そんな微妙な立ち位置であるわけだ。以上、あくまでもリスナーの立場から”歌詞”について語ってみた。しかし、”日本語音楽の作り手”の立場となった場合、また別のスタンスがある。長くなりそうなので、次回に続く・・・・・
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